ブログを開設してもうすぐ5年、これまで僕の書いた記事は600を超える。トータル文字数は文庫本12冊分以上。
色々書いてきましたが、初めてプロフィールを書きます。自分のことを書くのがどこか怖かったんですよね。
・どんな人がこのブログを書いているの?
という人にむけて書きました。
この記事を読んでくだされば、
僕は30歳。もう大人です。これまで色々なことがありました。振り返ると、人生は全て繋がっている気がするんですよね。
正直なところ、地味です。派手な出来事はなにもないし、ドラマチックなイベントもない。でもそれが僕の人生なんです。反省はあるけど、後悔はない。
いつもの記事は、誰かに向けて、誰かのためになればと書いてきました。
しかし今回だけは別。自分のために書いてます。自分の人生を30歳になって振り返るためにキーボードを叩いてる。でも読んで損はさせません。面白く書きます。
記事の前に自己紹介!
・一浪・一留を経て難関国公立大学理系を卒業→大手ブラック企業→超大手企業
・AbemaTVのオファーを受け、ひろゆきと討論しました
・当ブログで120万文字を執筆、累計PV数は100万突破
・30歳で貯金1,500万円達成
幼稚園時代まで
出鼻をくじいてしまうことになりますが、あまりここらへんの記憶はない。物心つく前だったんだと思う。
幼少期というのは、周りの人にチヤホヤされるし、わがままを聞いてもらえる年齢なのに、この頃の記憶がないのはもったいない。
社会人になって、上司に激詰めされたことの記憶なんかは鮮明に残るのに。人生は理不尽。
両親や親戚に可愛がって幼少期は過ごしていました。その頃の写真やビデオを見る限り、非常に恵まれた家庭環境だったっぽい。
僕は今30歳で、もうしっかりした大人の男のくせに、今でもぬいぐるみを可愛がってる。一人暮らしする際にも、わざわざ実家から持ってきた。
このぬいぐるみ好きは、この幼少期に形成されたもの。ずっと側にいるプーさんのぬいぐるみは、2歳の頃からの付き合い。
よくよく考えてみると、2歳の頃のものを30歳になっても持ち続けてるってスゴい。というかヤバい。
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あまり幼稚園の記憶はないんだけど、強烈に覚えている事件がひとつある。それはカバンにまつわる話。
幼稚園に通うのに際して、それぞれみんなカバンを持つ。男の子はたいがい真っ青とか明るい色。女の子は赤とかピンクとか。
しかし僕のカバンは真っ黒。デザインもあったけど、それらも全て黒色。そんなカバンはマジで幼稚園で僕だけだった。
周りからバカにされたというか、「お前だけ違うな」ということを頻繁にコメントされたり、いじられた記憶がある。子供は残酷。
僕はそれが嫌で、カバンを買い与えてくれた母に抗議をした。しかし母は「そのカバン良いと思うよ。一番カッコいいやん。」と、その度に教え諭された。
その発言で「よし!そうか!」とまでは納得いかなかったけど、徐々に慣れてはいった。今思うとこの経験は非常に貴重だったと思う。
幼少期に少数派を経験できた。スイミーみたいな感じ。「周りと違っても特に大きな影響はないんだな」と感じた原体験だったと思う。
小学校時代
小学校は楽しかったと思う。でもドッジボールが苦手だったし、足も速くはなかった。その代わり成績はそこそこ良かった。
ゴレンジャーで言えば、アオレンジャーになるのかもしれないけど、アカレンジャーになってみたいと考えている子供だった。
低学年の頃は進研ゼミをやっていた。ほとんど付録とか、ついている雑誌目当てだったけど。その雑誌で毎月「親父ギャグ」のコーナーがあって、その影響を受けてか、学校でも家でも親父ギャグを言い続けていた。
今はブログでこうやって文字で遊んでいるし、日本語ラップを聴いてたりする。多分僕は昔から、日本語の語感が好きなんだと思う。
ラッパーのForkがフリースタイルバトルで、「お前は歌が上手いことは、誰も疑うまい」ってラップしてた。当時の自分に聞かせてあげたい。
3・4年生の頃に、進研ゼミからZ会に変えた。「小学校の時からZ会をしている」、なかなかインテリっぽい、我ながら。
ここでは付録の楽しみはなく、問題を解くのがメイン。Z会のチューターにあたるような人が、月に一回電話がかかってきた。
勉強の進捗状況を聞いたり、最近の学校の話をした記憶がある。でも電話がかかってくる日を忘れていて、普通に外出したり、入浴してたりですっぽかしたこともあった。
向こうからしてもウザかったんだと思う。僕は子供が嫌いなんだけど、僕みたいな子供が身の回りにいたら、マジでキレてたと思う。
そして小学校4年生から卒業までそろばんに通う。授業でそろばんを何回かすることがあって、「なんか面白そう」で親に頼んで通うことになった。
振り返ってみると、僕はそろばんが好きだった。達成感があったし、級も小刻みで、上達している感覚を得られたのが大きかったんだと思う。
高校から理系で、大学も理系に進むんだけど、この根っこを掘ってみると小学校のそろばんに行き着く。大人になって使ったお金は全てノートにメモしていて、数字に対する愛着もこの頃に形成されたのかも。
そして小学校5年からは塾に通い始める。近所の仲の良い友達が「一緒に行こう」と誘われて、親に頼んで隣の駅にある塾に行くことに。
僕はそこまで勉強したいって意欲はなかったけど、仲の良い友達と会える時間が増えるならってテンションだった。入ってみたらかなりハイレベルな塾で、ゴリゴリ宿題を出された。
小学校5年生の時点で、小学校6年生が学校で習うことを、教えられた。友人はそこまで勉強が得意ではなく、結局1年か2年でやめて違う塾に移った。
ここで僕はモチベーションが皆無になるものの、通い続ける。僕の家庭の方針で「なんでも3年はやりなさい」ってのがあって、親に言っても許してはくれなかった。
水泳、書道、サッカー、ラグビー、そろばんなど小学校の時は色々習い事をしたけど、結局全部3年以上は続けた。家庭教育というのは子供にとってインパクトがある。
結果から言うと、この塾は中学校卒業まで5年間通うことになる。結果から言うと、この塾に通っていて良かった。
とは言え小学校の時は自由時間も多かった。毎日何かしらで遊んでいたと思う。
- 遊戯王カード
- レゴ
- ファイアーエムブレム
- ポケモン
この4つは僕がハマりまくったもの。完全にインドア趣味なのが丸出し。
遊戯王も今ほど複雑じゃなかった、攻撃力の高いカードがあれば勝てた。脳筋なデッキしか作るセンスもなかった。
ゲームもゲームボーイかゲームボーイアドバンスか任天堂の64だった。今から考えると信じられない低画質だけど、それでも楽しかった。
この記事を書いていて、ふと思い出したんだけど、小学校と中学校を通じて僕が何よりも嫌いなものがあった。それが縄跳び。めちゃくちゃ苦手だった。二重跳びが一回できるまでに数年かかった。
毎年冬になったら、体育の授業で縄跳びの色々な技をリストにして渡されて、「コンプリートを目指そう!」って縄を飛ばさせられた。あれが本当に嫌だった。
縄跳びってできる人とできない人の差が歴然に出る。悔しくて休みの日に一人で練習したけど、同級生にその現場を見られ、めちゃくちゃ恥ずかしかったこともあった。
人生は今が一番良い、って常々思ってる。異論はあるかもしれないけど、少なくとも縄跳びがないだけ、大人は子供よりも幸せだ。
中学校時代
楽しくはあった、でも人生で一番戻りたくない時期かも。それが中学校時代。
思春期って人生で一回で良い。身長は伸びてほしいけど、思春期のメンタリティや周囲の人間関係などは、一生に一回で十分。
僕の中学校は公立の中学校で、とにかく多種多様な生徒がいた。成績、スポーツ、素行、全てを見てもピンキリ。
中学校で体格も変わるけど、それと同じくらいに変化したのが成績だった。端的に言うと、僕の成績はめちゃくちゃ伸びた。
僕の通っている塾に生徒がいきなり増えた。僕が子供の頃は、お受験するわけでもないのに、小学校から塾に通う人は稀だった。しかし中学生になり、猫も杓子も入塾。
塾は塾内でする定期テストの成績順にクラス分けをしてた。嫌々通っていた塾だったけど、小学校の時は一番上のクラス。まぁクラスは二つしかなかったんだけど。
しかし中学校に入り、生徒数も増えたことで、中一の時に7クラスの中で、上から3番目のクラスになってしまう。ここで「あ、勉強しないとヤバいかも」って気付く。
中一の夏期講習に僕はなぜか覚醒。とにかく勉強にフルコミットするようになる。自発的に勉強するって楽しい、成績って結果に出るから嬉しい、もっと勉強しよう。こんなスパイラルに入る。
結果から言うと、そのままの勢いで勉強を卒業まで続け、地元で最も難関だとされていた偏差値70オーバーの高校に進学することに。
ただこれだけ見ると、「良い中学時代やん!」って思われるかもしれないけど、特にそんなことはない。
中学校の頃は、「勉強ができる」がアイデンティティだった。というかそれしか自分の個性がなかったんだと思う。
しかも僕が希望していたのは公立高校で、内申点が必須だった。内申点:当日点=1:2の比率で、試験当日までに勝負の1/3は決まる。
興味のない授業も、関心があるように振る舞ってたし、提出物もとにかくきちんと出した。尾崎豊が盗んだバイクで走り出していた時期に、僕はブラックマンデーかってくらいに媚びを売り続けてた。
学校の先生なんか全員大嫌いだったけど、結局内申点はそこそこになった。しかしこの時のフラストレーションや苛立ちは、いまだに残ってる。
部活も散々だった。剣道部に入ってみたものの、サボりまくってた。現代に先駆けて、週休3日・4日とか、自主的に導入してた。
しかもそれだけサボっていた部活も途中でやめる。土日も勉強したいからって理由で、クラスメートと遊んだことも数回あるかないか。
勉強の合間にマンガは結構読んでいた。特にハマったのが、この3作品。
- ドラゴンボール
- ブラックジャック
- るろうに剣心
しかし改めて振り返ってみても、つまらない中学時代だったと思う。
流行りの音楽にハマることもなく、テレビもそんなに観てなかった。世代の「花より男子」は観てたけど、それくらい。
女の子と付き合うこともなかった。中学校時代の友人はほぼいない、いても中学かつ高校も同じだった人くらい。クラスでの時間は楽しかったけど、僕が心を開けていなかったんだと思う。
スポーツものめり込んでなかった。なんで部活をするのか、意味が見出せていなかった。
今の自分につながる趣味も、マジでドラゴンボールとブラックジャックくらい。るろうに剣心は結局売っちゃったし。
マジで勉強ができて良かった。クラスメートから「あいつは勉強ができる」ってキャラ付けができて良かった。
勉強もできてなかったら、自分はきっと何も残ってなかったのかもしれない。これが僕の思春期。
高校時代
中学校は勉強特化型だった。中三の終盤くらいは、早く高校に行きたかった。自分と価値観の合う人がいるんじゃないかってずっと期待してた。
中学校を卒業した時に、「やっと解放された」って感じたのは、なんか覚えている。
満を持して入学した高校。結果から言うと、高校生活は楽しかったと思う。中学校の頃よりも接していて楽しい人が多かった。
学力はひとつの指標に過ぎないけど、最初に学力でふるいにかけることで、ある程度価値観の合う人が集まるのかもしれない。
進学校だったけど、勉強もそこそこできた。一番良い時で学年で10番に入るかどうかってレベルだった。
この時にハマったのが特に下の3つ。今に続くサブカル好きの土台は、高校生の頃に形成されたと思う。
- ジョジョの奇妙な冒険
- ハンターハンター
- 音楽
この時にハマったRadioheadはいまだに一番好き
時代は奇しくも、アイドル全盛期。AKB48とかKARAがとにかく流行る。みんな握手会に行ってた。
しかし僕はそんな中、レッチリとかニルヴァーナとかエミネムとか洋楽の一丁目一番地をiPodでずっと聴いてた。「オレは一味違うぜ」ってイキリ散らかしてたんだと思う。
部活は中学と同様に、平成中期から「週休4日制」を導入したものの、結局一年ちょっとで辞めた。我ながら「ゆとり世代」が色濃く出た非常にダメな事例だと反省はしてる。
しかし同じ部活だったメンバーはいまだに仲が良い。ここひとつとっても、中学校時代よりかは恵まれていた。
男女共に友人もできたし、文化祭のダンスでは、クラスのセンターで踊ったりもした。比較的イケてた高校時代だったはず。
しかし高三の頭に、初めて女の子と付き合うことになる。人生初めての彼女ってことで浮かれまくってたんだけど、これが高校生活最大のしくじりを生むことに。
この女の子は、見た目は可愛かったものの、典型的に女子から嫌われるタイプの女子。加えてかなりバイブスがあり、とにかく声も大きく、やかましいと男子からも疎まれていた。
そんな女の子と付き合ったもんだから、僕の株も大暴落。新進気鋭の俳優が、素行の悪いと噂のグラビアアイドルと熱愛報道が出て、一気に干される、あの感じ。
ほんのちょっとだけど「多少はイケてる」とされていたけど、そこから一転して「ダサい女と付き合ってる奴」にまで降格。
しかも数ヶ月で別れることに。高三で人生初の失恋、しかも相手は同じクラス。受験勉強に身が入らない時期が続く。そのせいだけではないと思うけど、結局浪人して大学に進むこととなる。
「男は女によって身を滅ぼす」という経験を、最初の恋愛で経験するというハードな結末に。最初は調子は良かったけど、高三の一年間はなんともパッとせず。そんなビターな結末な高校時代。
大学時代
人生で一番堕落していた時期
現役時に第一志望に落ちて、浪人しても結局落ちて、滑り止めの大学に進学。一応国公立の理系ってことで、自分の小さなプライドを多少は満足させ、大学生に。
高校の頃までは制服で過ごすことも多かったこともあり、私服は割と無頓着だった。しかし浪人生になり、予備校は毎日私服。
浪人生になり、急激にファッションに目覚める。「高校デビュー」、「大学デビュー」、ノンノン、世にも稀な「予備校デビュー」。
しかもなぜかこの頃に、「メンズエッグ」とか「メンズナックル」とか、ゴリゴリのギャル男文化に染まる。毎日服とか持ち物のどこかに、豹柄を入れないと精神を保てない奇病にかかる。
予備校時代に髪を伸ばしに伸ばし、髪の毛にメッシュを入れて大学生になる。そのままの勢いで、テニサーに入る。
「大学生は新歓が大事、GWまでで大学生活が決まる」というどこかで聞いたアドバイスを愚直に実行。結果的に良い感じで滑り出す。
ただ僕の大学生活は、パート1とパート2がある。それが留年前と後。1回生、2回生、3回生が前半。留年してもう一度3回生、4回生、こちらが後半。
インターネットの世界で、Windowsができた1985年ごろを分岐点として、それ以降を「アフターゲイツ(AG)」、それ以前を「ビフォーゲイツ(BG)」と呼ぶらしい。
これと似た感じで、僕の大学生活も「アフター留年(AR)」で「ビフォー留年(BR)」がある。こちらは「ビフォー留年(BR)」の話。
「ビフォー留年(BR)」はとにかくヌルくて、堕落していた日々だった。現役と浪人、2年続けて受験勉強した反動で、「もう一生分勉強した」ってテンションになってた。
単位がとれればなんでも良いやってことで、講義に出てた。数個の単位を落としたりもしながらも、そこそこは抑えていた。GPAは1.2とか視力検査のレベルだったけど。
打ち込めるものもなく、ダラダラ大学に行き、小遣い稼ぎに塾講師のバイトをしていた。サークルも飲み会やBBQに通っただけ。
テニスサークルのくせに、結局バックハンドは打てないままに終わった。目標もなく人生で一番エネルギーを持て余していた時期だった。
留年を経てから
完全に晴天の霹靂だった。順調に単位を集めていたものの、必修単位をひとつ落として留年が決まる。
ここでマジで凹んだ。今から考えると大袈裟だけど、人生で一番大きな挫折だったかも。浪人したりもしたけど、高校から浪人する友達も多かった。
しかし留年したのは自分だけ。仲の良かった友達は誰も留年せずに、上の学年へ。置いていかれてる感がハンパない。
この留年の経験はかなり強烈で、人生を考え直すきっかけにもなった。思えばここ至るまでの僕の人生は、完全にレールに乗って、流されてきてただけだったと気づく。
特に意識せずに高校に進学。勉強は得意だったから、偏差値高めの大学を受験。しかし別にしたいことがあったわけでもなかった。
大学の学部も学科も、「単位が楽に取れるよ」という評判だけを手がかりに選んだ。人生で、僕は、何ひとつ、能動的に選んでこなかった。自分の人生なのに、どこか他人事だった。
ここらへんから僕は、「成長」とか「生産性」という言葉を強く意識するようになる。
理系だったけど、大学院に行かずに就職。しかも理系の職種にそこまで興味を持てなかったので、文系就職することを決意。
単位数は足りていたので、留年期間は半年休学。ひたすら自分のレベルアップに努める。
- めちゃくちゃ読書をする
- インターンに行く
- TOEICを勉強する
- ランニングをする
この4つを毎日実施し、就活に向けて準備をしまくった。大学生の留年以降の過ごし方が、今の自分のアイデンティティに直結している気がする。
理系だったけど、TOEICは800点オーバーの点を取れた。準備をしたことで、就活は5社内定をもらえた。結果としては、それなりに巻き返せたと思う。
しかし人生は等価交換、ノーペインノーゲイン。失ったものもある。それが人間関係。前半の頃に仲良かった友人とは、完全に疎遠になる。
しかも距離を置いたのは自分。今思うと、そこまで極端にしなくても良いかもって気もする。
その時期に流行っていたこともあって、友人は集まればずっとパズドラの話をしてた。生産性にこだわり出した僕からしたら、スマホゲームなんて無駄OF無駄。
話も合わないし、時間ももったいないしで、授業後に集まる場にも行かなくなった。サークルのイベントも行かなくなった。
卒業タイミングもずれたから、誰とも卒業旅行も行ってない。卒業式を終えてから、一人でニューヨークに向かった。
結婚式にも呼ばれていない。2・3年前に二次会に一回だけ呼ばれた。10名以上の友達に、そこで数年ぶりに会った。久しぶりに話せて楽しかった。でもそれ以来会ってない。
自分の意思で決めたものの、卒業後に定期的に会う大学の友人がいないというのはなかなか寂しいものがある。
社会人になって、大学生が主人公の伊坂幸太郎の小説「砂漠」を読んで泣きそうになった。僕には大学時代の友人がいない。
自分で疎遠になる道を選んだんだ。もしあのまま堕落してたら、今の自分は存在しない。確信できるけど、それでも大人になってみると、貴重なチャンスを失ったんだと改めて感じる。
社会人時代
内定5社もらった中で、一番平均年収が高く、一番規模の大きい会社に就職。完全に打算しかなかった、可愛げのない就活生。それが自分。
一浪一留を乗り切りたい、ちゃんと就職するのがゴールだ、当時の僕はこのマインドを胸に刻み込んでました。悪いことではないと思うのですが、マジで就職することをゴールだと勘違いしてた。
世の中では新卒新入社員は目がキラキラしてて、数年経つと死んだ魚みたいな目になるってのが通説。違うね、僕は最初から死んだ魚の目をしてた。しかもマグロとか鯛じゃない、安い小魚の死んだ目。
これは本当に反省なんだけど、僕は就活生の頃は「入ってからの自分」をまるでイメージしてなかった。実際に入社した後で悩めば良いやってかなり楽観的に考えてた。
内定式の時点で、ゴリゴリ体育会系の会社だって気づくべきだった、というか社員もそう言ってた。というか説明会も行ってなかった。
自分が中学高校ともに部活を途中でやめたヘタレってことをもっと自覚すべきだった。後の祭り。リオのカーニバルの後みたいな感じ。
実際に僕の会社はブラックだった。まぁ「うちの会社は体育会系ですねん」って言ってる会社がホワイトなわけはない。今なら分かる。
これでもまだ一部なんだけど、こんな社員がいた。
- 自宅で首を吊った社員
- 電車に飛び込んだ社員
- 酔った勢いで暴行事件を起こし逮捕された社員
- 会社の金を横領した社員
ちなみに「自宅で首を吊った社員」は面識がある人だったから、かなりトラウマになった。業界の中では規模が大きかったけど、知名度はなかった。
知名度がない会社だと、少々の不祥事があってもマスコミに扱われない。キャッチーさがない。大手企業で不祥事が裁かれてるけど、大手企業じゃないとこにも不祥事は多くある。
光が当たってないだけ。ニュースや雑誌に取り上げられない企業の方が、闇は濃く濃密。アンダーグラウンドは、果てしなく深い。
残業時間も一番多い時で、100時間近くになった。そして何よりも人間関係がヤバかった。上司になった人は5人いたけど、みんな何かしら問題を抱えていた。
その中でも一番まともで人格者とされていた上司は、単に「起伏の感情と覇気がないだけの人」だった。体育会系が行き過ぎると、どうもキレないだけで人格者扱いをされるらしい。
同僚も上司もとにかく責任を人になすりつけ合う。気が効く人が損をして、好き勝手言い散らかす人が得をする。言いたい放題発言する人がいることを、「風通しが良い」と呼ぶおかしな環境だった。
思いついたことを発言して、僕に「お前はおかしい」と散々言ってきた先輩は、転職した先の会社で試用期間でクビになった。転職先で「おかしい人」と判断されたそうだ。
今になってみると、常識とズレた会社だったって分かる。しかし社会人も初めて、会社勤めも初めて、そんな自分には分からなかった。「会社ってどこも、こんなもんだろう」って本当に信じてた。
同期は100人以上いた。でも気が合って仲良くなれたのは、片手もしくは両手で数えられるたった数人だけ。
入社して2ヶ月経って、しとしと梅雨が降る時期に、最初の同期がやめる、気の合う同期だった。これで仲の良い同期は、片手で数えられるようになった。
入社して2年目、いよいよストレスがスゴくなった。有給休暇はほとんどとれておらず、インフルエンザにかかった時と免許更新時くらいだった。
上司に「1日だけ有給休暇とりたい」と言ったら、拒否されたどころか一時間も説教された。
蜘蛛の糸、命の綱、これはもう貯金だけだった。とにかくお金を貯めることで、なんとかメンタルを保ってた。20代で1,200万円くらい貯金した。
会社の近くにあるクソまずい中華料理店。円卓があることで、多めの人数でも座れる。その理由だけで、上司や同僚と昼食に行く際は、その中華料理店で昼飯を食べさせられた。
大阪のオフィス街で、物価が上がる前のくせに800円以上もするチャーハン。油ギトギトで食べ終わった後、絶対にちょっと気持ち悪くなる。
せっかくの昼休みに、上司の仕事論を聞く。お盆のお坊さんのお経の方がまだ耳に入ってくる。「絶対にこんな環境から抜け出してやる」と誓って、お茶で流し込みながらチャーハンを食べたのは忘れない。
新卒→2社目(現在)
そんな下劣な環境で数年過ごし、ついに転職を決意。結局なんだかんだ5年は勤めた。
僕の家庭の方針で「なんでも3年はやりなさい」 ってのがここで活きてきた。幼少期に染み付いた教えは抜けないもんだ。
ブラックで業務量が多かったため、経歴書に記載できる内容は多かった。「色々とご経験されてるんですね」と、転職面接で言ってもらえた。ここはマジで嬉しい誤算。
会社支給のiPadのセキュリティはガバガバで、YouTubeとかアダルト動画とかを見るのに重宝していた。会社のメリットってそれくらいだと思ってたから。
転職面接をして、内定は2社。転職エージェントの人には、「平均すると80社エントリーして1社内定」って言われたから、我ながら頑張ったと思う。
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苦節の時代を耐えたことで、神様がご褒美をくれたのかは分からない。しかしとにもかくにも、僕は転職できた。
会社としてのランクもはるかに向上。不祥事が起こっても、マスコミが特集を組むくらいの大手企業に入社できた。
年収も約100万円UP。人間関係も大幅に向上。キレない、話を聞いてくれる、こんな人が職場にめちゃくちゃ多い。当たり前に聞こえるけれど、当たり前じゃない。
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ただあまり特筆すべきこともない。穏やかに生きてます。忙しい時期もあるけど、それなりにメリハリをつけて仕事をしてます。これくらいのまとめになってしまう。
熱烈に嫌いな人もいない。しかしめちゃくちゃ好きな人もいない。今さらながらだけど、めちゃくちゃ嫌いな上司がいることで、絆が深まった同僚もいたんだろうなって思う。
呉越同舟というか、敵の敵は味方というのか、とにかく共通の敵がいるってのは一定の価値があったんだって気づく。
贅沢な悩みなんだけど、新卒の会社と比較して、嫌いな人もいない、でも同志と思える人もいない、こんなテンション。仲間をもっと増やしたい。
30年生きてきても、人間関係は難しい。表面上は仲良く話すけど、そこまで。もっと自分から人に歩み寄らないといけないんだろう。傷つくのが怖いんだろうか。
友人とか親しい人を作るのに、「共通の敵が必要」とか言ってる時点で、そもそもずれてる気もしてる。
ブロガーとしての歩み
社会人2年目の時に、このブログを開設した。片手で数えられる気の合う同期の一人が、うつ病になり休職したことがきっかけだった。
「会社に依存せずに稼げるようにならないと!」って焦りからスタート。会社の帰りの電車で、スマホからはてなブログでアカウント作ったのを覚えている。あの日からもうすぐ5年か、早い。
書いて数ヶ月して気づいたけど、ブログは全然稼げない。というか今も稼げていない。ここが重要で、今も、全く稼げていない。時給にすると数十円の世界。
しかし徐々に価値観がシフトしてくる。「お金を稼ぎたい」というマインドから、「ブログって楽しいから書きたい」というマインドに移行する。平たく言うと、ほぼ趣味化してる。
趣味をやっていて、それがたまに小銭を産んでる。そんな感覚になってきた。
- 5年間ブログを継続
- 累計すると100万PV突破
- 書いた記事は600記事以上
- 書いた文字数は120万文字以上
【参考】文庫本一冊でだいたい10万文字
お金にもならないのに、5年間で文庫本12冊分も文字を書いてる。客観的にみると、ほとんど変態。狂気に近いものすら感じる。
はっきり言って、僕に才能はない。認めるのはツラいけど、非凡で光るモノは僕には備わっていない。ブログだけで食べていくなんて、夢のまた夢。
このブログ期間の中で、唯一成果と呼べるものが、AbemaTVへのゲスト出演。書いた記事を見てくださったAbemaTVの方からオファーを頂いた。
ずっとファンだったひろゆきと対談できたのが、個人的に一番良い思い出。「ブログやってて良かった」って心底感じたのを覚えてる。
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お金にならない副業をずっと続ける。バイトしながらお笑い芸人やっている人のメンタリティーがちょっと分かりだした。
しかしお金のために始めたブログだったけど、お金以外のものが身についた。
- ライティングスキル
- 論理的思考力
- 内省力(自分の内面を見つめる機会があるか)
- 企画力
- アイデア力
- 自分の思考や行動原理の言語化力
皮肉なもので、稼げもしないブログ活用で身につけた知識が、結果的にマネーにつながってる。ブログのおかげで得た論理的思考力のおかげで、年収アップの転職ができたとも思う。
これが開設して5年経った今の心境。5年経っても一向に稼げていないけど、この気持ちはブレていない。
ブログはオワコン。かなり下火。でも文章を書くのは楽しい。こうやって文章を書き続けたら、いつか思いもよらない場所にたどり着けるかも。
その日を夢見て、今日も懲りずにキーボードを叩く。諦めはすでに音を上げてる。オレの勝ちだぜ、ばかやろう。
これからの人生をどう生きるか
もう30代に足を踏み入れてしまった。人生に待ったはなし。着実に時間が進んでる。
最近人生で大事にしてるのが以下の事柄。
- 健康の維持
人生のピークを30代に - 貯金を増やす
サイドFIREを目指す - 結婚はしばらくはしない
子育て願望もない - 人生経験の最大化
人生は経験の総量で決まる、好奇心を大事に
今の生活はおおよそ平和なものだと思う。もともとインドア派で、ひきこもり体質。今の職場はリモートワークも許容されてるから、働きやすい。
この年になってつくづく自分にはハングリー精神がないって感じる。成り上がりたい、ビッグになりたい、出世したい、こんな意欲が全然ない。
もともと実家は裕福で、子供の時からお金に不自由のない生活をさせてもらった。浪人して留年もしたけど、奨学金なしで大学に通わせてくれた。
そして家族仲も良い。両親、僕、弟、4人家族だけど、みんな円滑に関係を築いてる。だからこれまでの家庭環境をバネにって気持ちがちっとも湧き上がってこない。
良い生活をしたい、良い服を着たい、良い食事を食べたい、お金に困らない暮らしをしたい。アングラのラッパーが抱えるような、がむしゃらな精神になったことがない。
こういったマインドの方が大きい。仕事に邁進してアイデンティティを形成するより、映画を観て、本を読んで、のんびり音楽を聴く生活を僕は愛してる。
今よりも幸福度が高い人生ってなんだろうか?思い至ったのは、やはり創作活動であり、アウトプットだった。
だから僕はこれからもブログを書く。世の中の情勢や、ブログのオワコン化は、僕にはコントロールできない。
でもこれからもブログを書くかは、自分で決められる。だったら周りは関係ない。書け、書くんだ。だって僕は、ブロガーなんだから。