「何のために生きているのだろう?」
こう感じていることありますか?
というか、逆にない人はいますか?
僕も結構この悩みに長いこと苛まれてきました。
自分の生きる意味が分からないし、生きていてこのまま死ぬのかなって。
その中で見つけた答えが「発信をすること」、「アウトプットをすること」でした。
創作活動をすると置き換えて頂いてもOKです。
結論から先に言います。
生きている実感がほしいなら、アウトプットをしましょう!
肩書きが無くなって自分に何が残るのか?
僕のこれまでの人生を振り返ると、そこそこいい高校と大学に行き、そこそこ大きい企業に就職しました。
でも、何となく満たされることが無かった。
たまたま試験や面接が上手くいき、多少のブランドが付いている環境に身を置いてきました。
ですが、肝心の自分には何のブランドも付いていない気がしていたのです。
「国家議員も辞めればただの人」などとも言いますが、現代人は肩書きでしか自分を誇示できない人が多いのです。
これは完全に僕もそうです。
人のふんどしで延々相撲をとり続けている様に感じていました。
例えば、僕の尊敬するホリエモンこと堀江貴文さん。
ホリエモンの凄さはそもそも、生きているだけでコンテンツになっているところ。
もし無一文になっても、無職でもそこからでも何か大きなことをしてくれそうな期待を持ってしまいます。
見たこともないものを産み出したり、僕らの度肝を抜いてくれそうと思わず感じてしまいます。
一体、ホリエモンは僕と何が違うのか?
それは今までに発信してきた情報量とその質です。
たゆまぬ高品質のアウトプットを続け、ホリエモンは圧倒的に普通の人と差をつけたのです。
発信で大事なのはオリジナリティ
これは僕もまだまだ勉強中ですが、意識したいのは「オリジナリティ」。
平たく言えば、誰もが言っていることを自分が言っても仕方ないのです。
流行のニュースや、ブームになっている話題をいち早く記事にすれば確かにPV数を稼いだりすることができるかもしれません。
しかし、長い目で見た際にあまり「インフルエンサー」としては意味が無いのです。
何かしらの「新しさ」が無いといけません。
それは、全く新しい「切り口」・「角度」というだけでも良いかもしれません。
内田樹さんの著書「困難な成熟」でもこのことについて述べられています。
自分が感じていること、考えていることを発表するときには、できるだけ「自分が死んだら、これと同じことを感じたり考えたりする人がいなくなる」事だけを選択的に語る方が良いと思います。
「自分と同じ様なことを考えている人がいくらでもいる」というのは、裏返して言えば「だったら、自分はいなくてもいい」ということを意味する。
内田樹さんの言う通りで、「自分しか言えないこと」を言うことこそ生きている意味を感じることができる様に思うのです。
(転用元:https://genius.com/artists/The-beatles)
Beatlesが今でも色あせないのは、彼らの音楽がオリジナリティに満ちていて、Beatlesがいなければおそらく誰も聴くことがなかった音楽だったからです。
「自分はいてもいなくてもいい」という呪い
「自分はいてもいなくてもいい」と感じてしまうのはとても悲しいことです。
そして、辛いことに世の中の人は大抵「代替可能」なのです。
僕もずっとそんな思いに苛まれてきました。
「今自分が消えても、世の中に全く影響はない」と。
しかし、ブログを初めて少しその気分が薄れてきました。
初期に書いたこちらの記事。
中の構成や見栄えなどもまだ見れたものではないですが、考えはこの頃と変わっていません。
サルトルの「実存主義」について書きました。
この本の骨子は、自分は何故生きているかが分からなかった主人公ロカンタンが生きている意味を見つけるという話。
最終的に、「物を書き他の人に伝える」ことで生きている意味を感じるに至るのです。
自分の生きた証を残せば、生きている意味を実感できるのではないでしょうか。
このように文章でも、音楽でも、映像でも、何でも構いません。
それが、オリジナリティに満ちたもの、今までにないものであればもう言うことはありません。
大学の卒業論文はまさに良い例です。
今までにないものを提示しなければ、認められないですよね?
これまでの論文と全く同じことしか書いていなければ、その論文は存在する価値はないのです。
何かしら、どこかしらでブランニューな部分がいるのです。
「承認欲求」からは逃れられない
「承認欲求」は時として歪んだものと捉えられていますが、人間を人間足らしめている大きな要素だと思っています。
流行のお菓子を買ってSNSに投稿し、その後食べずに廃棄する方もおり、一時期問題になっていました。
さすがにそれはやり過ぎだとは思います。
ですが、「人に認められたい」という気持ちは人間誰しも持っているはず。
それは身近にいる人である場合もありますし、画面の向こうの人の場合もあります。
自分の居場所を見つけたり、自分自身を認めてもらうためにやはり何かしらの成果物がいるのです。
「何のために生きているのだろう?」
答えはシンプルです。
自分にしか産み出せないものを産み出すため!
これしかありません。
まだまだ僕も道半ばではありますが。笑
ではでは!